忘却
 
 来年1月からのNHK大河ドラマは市川新之助主演の「ムサシ」であるらしい。武芸者であった宮本武蔵は晩年「五輪の書」を書き、その中で「わがことにおいて後悔せず」といっている。わざわざ後悔せずと書くとは、彼が相当後悔することの多かったことの証しではないだろうか。人生は自省と後悔の連続である、武蔵はそう言いたかったのかもしれない。
 
 そう言いたくてそう言わなかったのは、武芸者のたしなみであったようにも思えるのだ。これまで散々後悔してきたのだから、この辺で後悔とは訣別しよう、それが「わがことにおいて後悔せず」ではなかったろうか。16世紀末から17世紀にかけて生きてきたヨーロッパの同時代人なら武蔵のようには決して言うまい。人生とはうち寄せる自省と後悔の波間に漂うことである、とでも言うだろう。
 
 悔恨というといかにも後悔より重く深く長いようにきこえるが、人はみな悔恨の念を生じざるをえない局面に出くわし、それと正面から向き合うことによって学習し、人の心を知るのではあるまいか。毒を食らわんとして予(あらかじ)め薬を貯うるような人でも、生涯に一度の後悔もなかったと断言できる人はいない。後悔を経て人は極楽の余り風を知るのだ。
 
 ところが、人の心に宿る過去への妄執、憎悪というのは余程質(たち)が悪いとみえて、これらがいったん心に宿り、心を蝕(むしば)んでいくと、心は徐々に病み歪んでゆく。妄執と憎悪という毒は回りが早く、なかなか立ち去ろうとはしない、おまけに解毒剤の入手も困難をきわめる。
 
 近年癒しということばが度々登場する。癒しに関しては別稿に譲るが、癒しとはありていにいって、上記の妄執や憎悪、さらには私たちを悩ませる「拘泥」から解放されることではないだろうか。自らの苦悩や人への憎しみをいかにして断ち切るかという問題に直面した時、人は自分の心に巣くうドロドロした妄執にさいなまれる。かく在りたい理想的自分と、かく思っている現実の自分との隔たりの大きさ、矛盾に悩むのである。
 
 そういう悩みを持つことで人は成長するようにも思うのだが、一方で、どうしても断ち切れない何かの存在することも人の世の普遍性として容認せざるをえまい。いずれ時が解決するという人もいるし、事と次第によっては時間が解決しないわけのものでもなかろうが、時間が解決できないものもある。
 
 忘却とは時間の解決できない苦悩、憎しみ、妄執の果てしない連鎖を忘れさることなのである。人の世には忘却をもってしか断ち切れない何かも存在するのだ。癒しはそういう意味においては単なる一時しのぎにすぎないのかもしれない。
 
 
更新日時:
2002/11/17

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