先読み
 
 日常知らず知らずのうちにやっているのが表題の「先読み」であると思う。やらない人もいないわけではないが普通はやっている。もっとも、先読みしたからといって特別何の役にも立たないことのほうが多いし、見込み違いや考えすぎということもあるのだが、私たちは先を読む。
 
 神さまじゃあるまいし、先のことなど分かるか、世の中は出たとこ勝負だと口にする人も実は先読みしている。多くの経験が先読みの手助けをする場合もあるが、邪魔する場合もある。高を括る性癖の人は、その癖が災いしてしょっちゅう同じ失敗を繰り返す。高をくくるのと先読みとは全く別の事である。
 
 あらかじめ起こりうることを想定して、万が一に備えるのは私たちの世代特有の「備えあれば憂いなし」という考え方に基づいているが、そもそも人には予知能力があるのではないかと思うのだ。予知能力といって語弊があれば霊感、いや、霊感は適切なことばとはいえない。
 
 先読みは他人についてのことなら比較的やりやすく、また読みがはずれても、先方に先読みの内容に関して言及していなければ不要なトラブルは免れる。先読みが的中しても、先方からありがたがられることはない。しかし、自分のこととなると話は一変する。
 
 なぜ一変するかというと、先読みがはずれたことで人生に影を落とすこともあるからだ。個人事業者や自営業者の場合、先読みを誤ると死活問題になる。売れ筋と確信して融資を受け、大量に仕入れをおこしたが在庫の山を築いてしまった。こういう場合、読みがはずれたと嘆息するだけではすまないだろう。
 
 だからといって何もしないわけにも行かず、何かをする前に可能な限りの先読みをするという次第なのだ。その場合、悲観的に考え、楽観的に行動するのが常套手段と断言する人もいるが、なに、楽観的に考え、悲観的に行動したとしても大事ない。結果はその人の信用度と行動力、根気などといった要素の有無によっても左右されるであろうから。
 
 先日ロバート・アルトマンの「ゴスフォード・パーク」をみた。1930年代の英国、「ゴスフォード・パーク」と呼ばれるカントリー・ハウスを舞台に、貴族階級と使用人との対比を巧みに描いたサスペンス仕立てのドラマである。英国の名優が随所に散らばっている贅沢な映画で、殆ど一軒のカントリー・ハウスの中だけでストーリーが展開し、135分を一気に終わらせて飽きることがない。
 
 ハウス内の調理場や召使い、メイドの部屋なども出てきて興味津々、彼らの素顔が手に取るように分かって面白い。この映画でヘレン・ミレンがメイド頭を演っているが、彼女は訪問客をもてなすことに長けたプロフェッショナル、ハウスの女主人の信任も篤い。
 
 メイド頭といっても所詮使用人のひとりにすぎず、経済的にもいわばギリギリの生活を強いられており、決してめぐまれた境遇ではないのだが、彼女の唯一の自負は先読みの正確さである。接待の基本は的確な先読みである、それが彼女の信条といえよう。
 
 晩餐会のはじまる前までに訪問客についての様々な情報を、客が伴ってきたメイドや召使いから得て、あらゆる状況に備える手際よさは実に見事。その彼女の先読みが驚くべき形で遂行されるのがこの映画の隠し玉である。ある種の因縁話であり、貴族階級と使用人との接点が大詰で明らかになるというわけである。
 
 先読みの極致は愛する者を窮地から救うことである。私はそう確信している。霊感とは異なるはずの先読みが、実は霊感に近かったと思うこともあるのだ。もしかしたら、強い愛が霊感を生じさせるのかもしれない。
 
 
更新日時:
2002/11/21

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