カルカソンヌはオード県の県庁所在地。旧市街シテは中世研究家で建築家のヴィオレ・ル・デュックによって19世紀に復元された。
ル・デュックの構想は、昔の設計図がないにもかかわらず当時のままに再現するという途方もないものであった。
 
紀元前6世紀にはガリア人が住居を築き、次にローマ人が都市をつくる。紀元3世紀には散発的に異国人の侵入もあり、
435年に西ゴート王国最北端の国境の町となり、725年〜759年にかけてイスラム教徒が占領、その後フランク族の支配下に入った。
封建時代にはカルカソンヌからニームに広がる公国が誕生、これがトランカヴェル王朝である。トゥールーズ家とバルセロナ家が競い合う
政治状況下、カタリ派の興隆を危惧したローマ法王イノケンティウス3世は1208年アルビ十字軍を募り、異端派の一掃をはかる。
 
シャトー・コンタルのオリジナルはカルカソンヌ伯爵が1125年に建立した(現存のものは復元後の建物)。
復元前の1838年4月27日シテを訪れたスタンダールは「南仏旅日記」に次のように記している。 
 
【古いほうのカルカソンヌ(シテのこと)は、新市街と隣り合わせの山の上にある。新市街の門を出ると、丘の上に旧市街が見えたが、
初めは何が何だかわからなかった。どうやら廃墟と化した城塞らしい。見えるものは小さな円形状のもので、灰色の城塞に囲まれた
やはり灰色の村に、そのまわりの樹木のない丘の冴えない緑だけである。】
 
スタンダールの文章でわかるのはシテの惨状だけだ。修復のありがたさを知る一文である。ともあれ、ナポレオン3世の支援もあって、
ル・デュックは廃墟をみちがえるほどの建造物に建て直したのだ。シテの復元工事は1844年に着手、1910年まで続いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャトー・コンタル夕景
シャトー・コンタル夕景
 
シャトー・コンタル(伯爵の城)は12世紀の城館。五つの塔がある。(画像左の塔一つは写っていない)
 
 
 
 
 
シャトー・コンタル
シャトー・コンタル
 
 
 
シャトー・コンタル
シャトー・コンタル
 
 
 
シャトー・コンタル
シャトー・コンタル
 
 
 
シャトー・コンタル
シャトー・コンタル
 
 
 
シャトー・コンタル
シャトー・コンタル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブラセリー「Chez Saskia」の横。玄関は別にある。瀟洒というのがぴったりのブラセリーで、1999年10月12日夜はじめて入った。
このレストランはシテ内のホテル「ホテル・ドラ・シテ」が経営していて、ボヤ〜と通り過ぎると気づかないくらい小さい。
 
「ホテル・ドラ・シテ」内のレストラン「バルバカンヌ」の高い、まずいに較べて、安い、うまい、雰囲気もいい。
サスキアはいうまでもなくレンブラントの妻。「Chez Saskia」の壁にレンブラントの複製ミニチュア画がかかっており。、サスキアの画も。
サスキアの父は破産貴族で、サスキアの容貌も美しいとは言い難かったけれど、レンブラントはサスキアを深く愛していたようです。
 
サスキアはレンブラントの子を4人産むが、1人目〜3人目は夭折、4人目の子(男子)を産んだあと身体が衰弱し、子の成長をみる
ことなく死んでしまう。サスキアの死後、レンブラントの画は暗い色調を帯び、レンブラント自身のわがままもさらにはげしくなって、
自分の描きたい画しか描かなくなってしまう。とうぜん収入は激減する。そんなとき4人目の子の乳母であった年増女と懇ろになった。
 
その後、別の若い召使いとも愛人関係にはまり、にっちもさっちもいかなくなる。乳母は気がふれて精神病院に入り、死んでしまう。
召使いはレンブラントの子(女子)を産み落とし、病魔に冒され他界。サスキアの遺児は27歳のときベストにかかり亡くなる。
若い召使いとのあいだにできた女児だけが生き残った。
 
 
 
 
 
オード門
オード門
 
オード門をぬけると、有名な「異端審問の塔」に着く。別名「裁きの塔」ともいう。異端審問は司教が仕切っていた。
 
ル・デュックがごみに埋まっていた地階を片づけたとき人骨も発見されている。
 
 
オード川
オード川
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オード川のむこうにたたずむシテ。
 
 
 
 
 
 
 
カルカソンヌの中世劇
カルカソンヌの中世劇
 
毎年8月半ば、シテでおこなわれる中世劇のもよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セサック城
セサック城
 
 
セサック城
セサック城
 
 
 
セサック城
セサック城
 
 
 
セサック城
セサック城