よしや君‥
よしや君‥
 
「古事談」は次のように述べている。『待賢門院は白河院の猶子として鳥羽天皇の中宮となられた後、白河院と密通して崇徳院が生まれられた。鳥羽天皇はその事を知っておられ、子であるはずの崇徳院を叔父子と呼ばれた(白河院は鳥羽天皇の祖父である)』
白河院は孫の鳥羽院より、自らが溺愛した待賢門院璋子に産ませた崇徳院のほうが可愛かったようで、白河院の意向で鳥羽院が崇徳院へ皇位を譲った時、崇徳院はまだ五歳であった。
 
西行が崇徳院を敬愛していたのは、待賢門院への思慕の情を心に秘めていたからであると想像できる。彼女はそれほどまでに男の心を奪う女性であったのか。あでやかで美しく、こぼれるような色気の持ち主であったのだろうか。西行が詠んだ「よしや君 むかしの玉の床(ゆか)とても かからん後は何にかはせん」は、西行に似つかわしくないほどのはげしさに満ちている。そのはげしさには崇徳院への敬愛の情も読みとれるが、むしろ璋子に対する思慕の深さを窺(うかが)い知ることができるように思う。
 
「よしや君…」の歌は、崇徳院が詠まれた歌「松が根の枕は何かあだならむ 玉の床とて常のものかは」(松の根を枕にして寝る旅も日常からかけ離れた仮寝とはいえない、宮中の立派な床も常のことではないのだからの意)を念頭においてのものと思われる。
崇徳天皇白峯陵
崇徳天皇白峯陵
 
『保元の乱』後、崇徳院は現在の香川県坂出市の松山の地に流刑となった。能「松山天狗」は崇徳院崩御の後、西行が崇徳院の菩提を弔うためにかの地に詣で、崇徳院の霊と出会うさまをえがいている…崇徳院は都から追放された無念さを吐露し、西行は院の胸中を察しつつ、世の移ろいやすさ、はかなさをいう。しかし、そのものいいは院の御霊をなぐさめる類のものではなく、ひじょうに力強いものいいであった。
 
院の死後、都では院の亡霊があらわれると囁かれた。上田秋成は「雨月物語」のなかで崇徳院のことにふれている。院の怨念がすさまじかったというのは物語としても成立するが、物語のなかの院より実際の院のほうが遙かにすさまじかったようにも思うのだ。心を鬼にするのではない、心が鬼と化すのである。そして自らが悪鬼と化すのである。それはあたかも院の母・待賢門院のたおやかな姿や、院ご自身の持つ美徳とは正反対の何かであったのではなかったろうか。
 
院の魂は妄執や恩讐から解放され、ここで静かにおやすみになっていられる。
850年に及ぶ時の経過が院をしてそれらを忘れさせたのであろうか。いや、そうではあるまい、院は相次ぐかなしさをご覧になってお疲れになられたのだ。いま院は心底から魂の安息を願っておられるのである。

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