忠度が都落ち直前に歌道の師・藤原俊成に願い出たのは、「撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、(中略)御恩を蒙って、草の蔭にてもうれしと存じ候はば…」であった。忠度の勅撰集撰入の願いを確約した俊成に対して、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野に屍(かばね)をさらさばさらせ、浮世に思ひおく事候はず」
と真意のほどを吐露し死地に赴く。
一ノ谷の合戦で源氏の岡部六弥太との組打ちとなり、力及ばず首を打ち落とされた忠度にとって死は覚悟の上であり、ただひとつの心残りは勅撰和歌集(千載集)に撰入された歌である。その歌がよもや「詠み人知らず」となるとは思いもよらぬ事であった。平家一門の中で不本意な栄達しか遂げなかった忠度には、歌名が後世に伝えられる事だけが自らの生きた証しなのだ、たとえ辺土に屍をさらそうとも…。
行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし
忠度は平家の武将でありながら、歌人として死に、歌人として永遠に生きようと強く願ったのである。
旅僧が須磨の浦でみた花は忠度の墓標なのだ、墓の中からさまよい出た忠度の亡霊(後シテ)は、旅僧に重ねて回向を頼み姿を消す。客席(脇正面)から私がみたのは花でも月でもない、まして春を感じさせる何ものでもなかった。私がみたのは忠度の妄執そのものであった…。
私はあの世に帰りますが、どうか私を弔ってください、私の魂を救済してください、この木陰を貴君が旅の宿とするなら、花、すなわち私が宿の主人なのだから。
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