詠み人知らず・花
詠み人知らず・花
 
能「忠度」の謡曲開巻劈頭に「花をも憂しと捨つる身の 花をも憂しと捨つる身の 月にも雲は厭はじ」
という詩句がある。これはシテの忠度の謡いではなく、ワキの旅僧のものである。花をさえ心に辛いものとして捨てた出家の身であるから、月に雲がかかってもいやな事とは思うまいとの意である。
 
花鳥風月を愛でた中世の教養人とは思えぬ云いようで、何が貴君をそうさせたのかと問うてみたい所である。花を否定し、月も否定する。雲に隠れた月はもはや月ではない。しかし、旅の僧の心に巣くう特異な厭世観がよく分かるのだ。僧はかつて藤原俊成に仕えていた歌人である。俊成卿が亡くなったことで彼は職を失い、全国行脚を余儀なくされたのだ。
 
俊成の息子・定家がいるではないかとお思いの方もおられるやもしれない、定家は歌人として知名度は高いが、それがなんだというのか、世故にたけ情に篤(あつ)かった俊成に較べれば、定家などは才走っただけのただの若者にすぎない。人のこころなどくみ取れようもないのである。
 
旅僧の姿は、七十二歳にして佐渡に流され、そこで生涯を終えた世阿弥と重なり合う。そして、旅の僧は須磨の浦で潮汲みをする老人(前シテ・忠度の幻影)と出会うのだ。それにしてもと私は思う、それにしても季節は春である、にもかかわらず春を感じさせるものは何もない、むしろ、晩秋のわびしさをそこはかとなく感じるのである。
 
詠み人知らず・月
詠み人知らず・月
 
忠度が都落ち直前に歌道の師・藤原俊成に願い出たのは、「撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、(中略)御恩を蒙って、草の蔭にてもうれしと存じ候はば…」であった。忠度の勅撰集撰入の願いを確約した俊成に対して、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野に屍(かばね)をさらさばさらせ、浮世に思ひおく事候はず」
と真意のほどを吐露し死地に赴く。
 
一ノ谷の合戦で源氏の岡部六弥太との組打ちとなり、力及ばず首を打ち落とされた忠度にとって死は覚悟の上であり、ただひとつの心残りは勅撰和歌集(千載集)に撰入された歌である。その歌がよもや「詠み人知らず」となるとは思いもよらぬ事であった。平家一門の中で不本意な栄達しか遂げなかった忠度には、歌名が後世に伝えられる事だけが自らの生きた証しなのだ、たとえ辺土に屍をさらそうとも…。
 
        行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし
 
忠度は平家の武将でありながら、歌人として死に、歌人として永遠に生きようと強く願ったのである。
旅僧が須磨の浦でみた花は忠度の墓標なのだ、墓の中からさまよい出た忠度の亡霊(後シテ)は、旅僧に重ねて回向を頼み姿を消す。客席(脇正面)から私がみたのは花でも月でもない、まして春を感じさせる何ものでもなかった。私がみたのは忠度の妄執そのものであった…。
 
私はあの世に帰りますが、どうか私を弔ってください、私の魂を救済してください、この木陰を貴君が旅の宿とするなら、花、すなわち私が宿の主人なのだから。

PAST FUTURE