子供の値打ちX
子供の値打ちX
 
家族の絆がいかに強いか、そしてまた、いかに弱いか、私はまだそのこたえを出していない。
私はそのこたえを一枚の写真にもとめ、永遠をみいだしたにすぎない。生あるうちにこたえはみつかるだろうか。
私の母は、この世で起きたことは必ずこの世で解決するといったがどうなのだろう。
 
 多くの人が不満をもつのは、私たちの能力に対してではなく、性質に対してであるように思える。
家族がぶつかり合うのもそうした性質が前面にでて、互いの接点を見いだしがたいことに起因する。
我は誰にでもあるが、我が強すぎると齟齬をきたすのだ。
 
ハデな諍いをしても許せるのは血のなせるわざであり、血は愛情のしたたりである。
愛情の血は憎悪の血より濃く、人と愛情との距離は人と憎悪との距離より近い。
子供はむきになって喧嘩もするし、それなりに辛辣でもあるが、喧嘩相手に寛大である。
子供の究極の寛容…私たちが大いに見習わなければならない美徳である。
それが子供の測りしれない値打ちの所以ではないだろうか。
 
「子供に還れ」というのは単なる比喩ではない。人が迷いの渕に立ったとき、生来の良心に目覚めることがあるというが、
それは、その人が生まれつき持っている善を適切につかうことで、人としてふさわしい生活ができることに気づくからである。
子供に還るとはそういうことなのだ。
 
ともあれ、生あるかぎり不変でありつづける何かを探す私の旅はこれからもつづく。
 
子供の値打ちX
子供の値打ちX
 
少女は今でも動物が大好きで、ペット禁止のマンションに住んでいるから飼わないが、
バルコニーへ遊びに来るスズメに米をやり、テレビで動物番組をみる。
 
「子供の値打V〜X」のモノクロ写真6枚は少女の父親=私の岳父が撮影した。数十年前、
初めて写真を彼女にみせてもらったとき、いいしれぬ何かを感じた。
写真の少女はもしかしたら私のあるべき姿ではないか、少女に封印されたもの、
すなわち写真に封じ込められたものは、生あるかぎり決して変わらない何かではないか。
この少女こそ私のすべて、私の永遠ではないのか。

PAST FUTURE